皆川ゆか『評伝シャア・アズナブル 《赤い彗星》の軌跡』 上下巻 [bk1][amazon][bk1][amazon]
「評伝シャア・アズナブル」面白かった。
作中にあった出来事は基本的にすべて事実(この場合は「史実」か)と看做す、というスタンスは『すごい科学で守ります!』に近しい。 愛と知性がそれを可能にする。
「評伝」の名に偽りはなく、歴史ノンフィクションの形をとったフィクションとして十二分に楽しめた。
しかし、それよりも、『機動戦士ガンダム』シリーズを統括する作品論、評論、批評としての価値が高いように思われる。
こちらのほうは、シャアを一人の個人として捉え、さらにそれをトミノフスキー監督の抱えたルサンチマンと結びつける「しろはた」=本田透の芸風に近しい。が、皆川ゆかのそれのほうが硬度、錬度、鋭度において数段優れている。
なぜならば、本田の評論が、芸風として、大いなる先達たち、宗教者・学者・偉人の言にその重きをおくのに対して、皆川のそれは作品からの引用と、なにより自らの思考と直観とを重視しているからだ。
例えるならば、鎖鎌でもって相手を絡めとる武芸者と、鍛え絞られた己が一指のみを相手の喉仏に貫刺して人を殺めてのける武芸者とどっちがスゲェかと言えばそら指一本のほうが強いに決まってんじゃねえかボケハゲェ!! という感じ。 アハン?
しかし、ファーストガンダムシリーズ全篇に対し「シャア・アズナブル」という名の一筋の美しい読み筋を見立ててみせるその文脈構築力、読解力、なにより思考力こそ見事。 「見立ての芸」ともいうべきか。 恐れ入った。
特にレコア出奔後のシャア(クワトロ)が漏らした台詞「サボテンが花をつけている」を読み解く件が怖気モノだ。
クワトロが、カミーユに詰問された時にもらした意味不明の一言「サボテンが花をつけている」から、シャアなる男の内面が、心象が、心根が、ザキザキと読み解かれていく。
それだけでなく、これまたレコアさんが吐くエキセントリック台詞「植物のもしゃもしゃしした感じが嫌になった」に結び付けられ、そのすべてに理解?共感可能な理由が推測、付与される。
いつも我々ボンクラどもがゲラゲラ笑いながら吐く「『Z』はガイキチばっかり」「お前らもうちょっと人の話を聞け」なんて言葉が恥ずかしくなるのはこういうときだ。
あの気違いじみた台詞と行動には、それを裏付ける意味がちゃんとあったのだ。
彼らもまた生きた人間であり、生きた人間であるからにはそれぞれに感じる情とそれぞれの思惑と複雑な事情としがらみとがあり、それをフィクションのなかで、さまざまな制約のなか、しかし一撃のもとで観客に伝達?表現するために、あのエキセントリック極まりねえ台詞どもはあったのだ。
つまるところ、それが作劇だ。
という、当たり前が、ここでぞろっと明示される。
しかも「評伝」という形をとって。
フィクションを享受するに、かくあれかし。
ここまで読みきってこそ本物よ。
とぞ思わされた。
昔、高橋源一郎が言っていた「正しい批評」というのを思い出す。(「文藝批評」だったかも、まあいいや)
いまこの世にある評論というもののは、すべてが「正しく」なく、厳密に「正しい」批評があるとするならば、このような形になるべきだと。
ひとつは、批評対象のすべてを引用していること。
ひとつは、批評自体が、評論対象と等しいかそれ以上の分量であること。
もうひとつは、批評対象に対するいわば「返歌」として、新たな作品を生み出すこと。
この三つを満たすものがまったくもって「正しい」批評である、と。
この「評伝シャア・アズナブル」。
すくなとくとも最後のひとつ、批評対象に対するいわば「返歌」として、新たな作品を生み出すこと、この点に関してはかなりいい線いってる「評」なんじゃないかと思う。
面白かった。