やがて咲くロータス
君自身のフローラ
世界中のすべての楽器を
ブローニングに。
戦闘をつづけろ
我々は
日々を闘うべきだろう
足を上げて歩くべきだろう
世界中のすべての兵器を
ベーゼンドルファーに。
パレードをつづけろ
もし漫画でしかできない表現というものがあるとするならば、鈴木志保の漫画がそうじゃないかしら。
そういう漫画だと思います。
鈴木志保、自選単行本未収録作品集。
収録された「ロータス1-2-3」「たんぽぽ1-2-3」「たんぽぽ1-2-3 主よ人の望みの喜びよ」の3篇が素晴らしすぎる。
ざっくりと、白と黒の描線で切り取られる時間と空間。
ちいちゃきもの。 こねこ(こにゃこ?)の日々日常。 日々日常の戦い。 それは、ご飯を食べたり。 ちゃんとお風呂に入ったり。 すくすくと大きくなることだったりする。 それを(そんなことを?)「戦闘」と呼ぶことの、意味。
歴史。 争いと悲惨と虐殺の。 けして、直接に語られはしないけれど、仄めかされる、世の不幸。
幸ならざる、ことがらども。
いまは無い。 ここには無い。 だが、かつてあった。
ここではないどこかで、いまもある。 あるだろう、という確信。
そしてこれが100年前の話
それも、時間と空間の彼方にすっ飛ばして。(でも、それは確かにあった。 いまもある。 これからも、あるだろう、という確信は、じっと残したまま)
そして『夏への扉』。
いつか夏へと、続く扉があるはずなんだ。 っていう物語。
次のドアをあけよ。 パレードは続くべきなんだ。
『船を建てる』以来、鈴木志保さんにはいろいろと言葉をもらっているな、と思う。
「パレードは続くべきなんだ」とか、今でも言ってる。 ほんとに。
なんでそんなことになるのかといえば、おそらく。
漫画でしかできない表現を、漫画でしか表しえないリズムでもってぶつけられているからだ、
と俺は感じている。
なんつーか、もう、魔術な。 ほとんど。
これと「同じ感じ」を高野文子の『おともだち』で感じたことがある。
漫画でしかできない表現を、漫画でしか表しえないリズムでもってぶつけられている。 あの印象。
ただの線と面とが、それ以上の意味をもって「立ち上がってくる」ような、あの印象。
稀有。
であると思います。
90年代初めのころの作品は、ひどく懐かしい感じがした。
懐かしいというか、こういうのがひとつの「モード」だったんだよな。 っつう。
あーこういうの見たことあったわ。 やたら。 一時期。 あのへんで。 っつう。
かつて、こういうものがこういうものとしてあった。 っつう。 気安い、懐かしさ。
素晴らしい。
何度でも読める。
読もう。