黄金の時。 幸せな結婚生活。 夫の薦めで書いた小説が新人賞を受賞し、幸せの絶頂にあったあきらにかかってくる一本の電話。 「いい気になるなよ……」。 その一言から、あきらのすべてが砕けていく。
さて、筒井の言を借りるならば「四十、五十のオバハンになって、まだこんな文章を書いて」いる新井の素子さんですが、いや、もう認めよう。 彼女は、結果として、ただひたすらに唯一無二な恐怖小説の書き手になってしまった。 と俺は思う。
怖い。 この小説はマジで怖い。 「ファン」とか「信者」とかなんとでも呼ぶがいいが、俺もその類だ。 だからこそ怖い。 「新井素子」という作家が、どのような近況にあって、どのような暮らしを送っているか。 エッセイやらあとがきやらで、彼女の状況を知ったつもりになっているファンだの信者だからこそ、この小説は怖気たつほどに。 コワイ。
彼女の怖さは、「混じる」ところにある、と思う。
独特としか言い様の無い文章。 そこでは地の文と、登場人物の思考と台詞と認識と、作者の主観と思考が緩やかに混じり合っている。
彼女の物語の中で繰り返される主題である「親と子」。 混じった血がもたらす束縛。 狂気に晒されて、壊れて溶けてしまう登場人物の現実認識。
書かれた物語と、作者である新井素子の人生。 それすらも、混じり合っているように読める。
なにより、混じっているもの。 自分自身の思考や文章と、新井素子の思考と文章が、混じり合い、同調していることを実感したとき。 自分の思考が新井素子に侵食されていることを、肌で感じる瞬間。
それが一番怖い。
「あ、」だの「えっと」だの「いや、」だの使うようになったのはいつからだっけ? 語る言葉で考え、書いて良いと気づかされたのは? それを誰から習い覚えた?
もういい。 認めよう。 自分の数パーセントは、新井素子でできている。 俺たちは、新井素子という病に犯されている。 「ファン」とか「信者」とか呼ばれる人には実感としてわかるだろう。 あなたの言葉が、語り書くこの言の葉どもの遠い母に、新井素子の名が連なっていることを。
ハッピー・バースディ。
世界は、新井素子でできている。
うふふふふっ?
……というか、これはもうそういうものとして認めて受け入れるか、一塵も認めずに完全排撃してないものとするか、どっちかしかないような、そんな作家さんだと思う。 新井素子って。