第弐齋藤 本とマンガの感想日記。

新井素子『もいちどあなたにあいたいな』

02.04.2010 · Posted in , 本の感想 このエントリをはてなブックマークに追加このエントリをdel.icio.usに追加このエントリをLivedoor Clipに追加このエントリをYahoo!ブックマークに追加このエントリをFC2ブックマークに追加このエントリをNifty Clipに追加このエントリをPOOKMARK. Airlinesに追加このエントリをBuzzurl(バザール)に追加このエントリをChoixに追加このエントリをnewsingに追加

新井素子『もいちどあなたにあいたいな』[Amazon]

もいちどあなたにあいたいな

新井素子7年ぶりの長編。

もしかすると、空虚であるなぁ。
素子姫に花束を。ただし、素子姫はもうどこにもいませんが、的な空虚さ。

読了したあと「橋本治の書いた小説みたいなだなぁ」と思った。橋本治の、特に現代日本を舞台にした中短編に。

まず、人が居る。人は社会に生きている。社会に生きている人は、それぞれの思惑を持っている。思惑とはロジックと言い換えてもいい。その思惑がいかに形成されていったのか、そのような思惑の形成を可能にする社会とはどのようなあり方をするものか、そのプロセスと背景と具体が三人称で語られる。

そこに、なんらかの事象が、事件が起きる。その事象、事件に対して、社会に生きている人は、みずからの思惑にしたがい、どのように、どのようなことを考え、行動するものか。そのプロセスと背景と具体が三人称で語られる。

これが、俺が思っている「橋本治の書く小説」。
描かれているのは、とある哲理。ロジックと、それを作り、従う人間存在のあり方。なんだけど、その手触り、眼差しは、ひどくドライで冷徹で、なにか、ゾワリとさせられる。

俺が思っている「橋本治の書く小説」と、この小説の、ロジックとそれを作り従う人間存在の在り様。それが、相似であるな、と感じた。橋本治は三人称で語られるけれど、新井素子は一人称超口語体で語られるのが違いだ。

事象全体を、外から、第三者の怜悧な記述の語り口でみるのか、内から、当人の思考プロセスもろとも、キャラクターになりきって追体験してみるのか、の差かしら。

(どうだろう? 単に、女の立場から、それが母であったり妻であったり子であったりする女の在り様が語られて、それがときに、男が男であるが故に居座っている鈍感さ狡さ無配慮さを糾弾している、という図式を見て、それを思っただけかもしれない。)

—-

そういや、一人称超口語体の使いである/あったこの二人デビュー、ほとんど同じ時期なのな。橋本治が1977年『桃尻娘』、新井素子も1977年『あたしの中の……』。どうしてこうなった?

—-

作中、「二人称が『おたく』であるおたく青年(ただし造形は整っている)」が登場するんだが……21世紀的にアウトじゃなかろうか? 彼……
なんというべきか……悶絶したわ。

—-

空虚、空虚ねえ。

この話が、本質として、「不在」を描いている、というのはあるか。『もいちどあなたにあいたいな』。でも、この言葉を発した人も「あなた」も、やっぱりどこにも居ねえんだ。もう。

作中の登場人物は、そんな理屈で納得したんだろうか? 彼女の不在を。そんな、句を絶するような理屈が説明されただけで、納得できたのだろうか?

—-

親しい人とこれについて話してみたい気もするが、親しい人はこれを読んでないし、おそらく読む必要もないという矛盾。
新井素子ファンっつう教室居座り組に出された、けっして解けない宿題みたいな話だよ、まったく。

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